2011年6月4日土曜日

17歳の秋、マルイチの復路で


高校時代、サッカー部に所属していた。何故194cmでそのスポーツを、という問いかけは、それほど大した選手ではなかったことも手伝い長きに渡って私を苦しめたが、ついに自問へと移行した後は人間形成に役立ったりもした。ただしそれは別の話である。

さてそのサッカー部、練習が無法にきついという、どちらかというと勘弁してもらいたい特徴があった。中でも恐れられていたのが「マルイチ」と呼ばれる種目である。四つ先の駅まで走って往復という、あなた何もそんなアスファルトなと言いたくなる内容で、どう考えてもサッカーの美しさからは存在が遠い。その上開始前のコーチ訓辞は「次回マルイチのタイムを縮めるために今日もマルイチ頑張るぞ!そして明日も!」みたいな感じで、部員はすかさず「うぃっす!」である。今にして思えば「あれ? 間違えてサッカー部じゃなくて陸上部に入っちゃった!」というコントを壮大な仕掛けでやってるような部活動であった。もちろん部員一同マルイチが大嫌いなのだが、あらゆる場面で持久力の無さを指摘されながら、人が気にしていること言葉にするなよなー、ノッポだって人の子だぜー、と問題点から目をそらすだけだった私は、とりわけ苦手としていた。しかも走らされまくった唯一の成果として、俺は今後もそれほど速くはならんということだけは明確になっている。こうなると、いかに苦痛への保険をかけておくかが処世だ。私の場合は往復10km超の道のりを、俺は虫、俺は虫、と言い聞かせて走るのが常であった。ただしそこはやはり人間。しかも割と体力に自信のない人間なので、だいたい67kmぐらいの地点で集中力が切れ、あ、しまった俺人間だったじゃんと気付いてしまい、その瞬間に友から遅れを取るというパターンを飽きずに繰り返していた。遅れたら遅れたで残りの道のりは、栄光へとひた走る背中群を遠くに眺めながら、俺は敗残兵、俺は敗残兵、と必要以上のトボトボ感をまとって自尊心を保つ。この頃からマラソンを見る際は、集団から脱落する選手の振る舞いに目がいくようになった。
そういうわけでマルイチがある日は朝から胃のあたりがズシンと重い。高校210月のある日も、胆汁で煮染めたような顔で午前中を過ごし、コールタールのような足取りで学食へと向かった。ちなみにこの時点で複数本のリポビダンDを飲み干しており、小便の鮮やかな黄色具合も確認済みである。飽和するまでビタミンを取ってないと不安でしょうがなかったのだ。
で、長い体を折り曲げて、ぼそぼそチキン南蛮定食なんかをやっていると、この世のものとは思えない嫌らしい顔で、隣にナナヤマが座る。「どうぇいーっす、この長人間! 死ね! 死なねえか! じゃ、今日のマルイチ、俺の秘策に賭けてみねえ?」「もうさ、そういう空しい現実逃避は止めようよ。だいたいそのマルイチ対策シリーズは先週もやったけど、いっそ終点まで走るシブイチに種目をすり替えるとか、みんなでチョビ髭生やすチョビイチにして練習の目的をぼやかすとか、完全にネタが一回りしちゃってんじゃねえかよ。俺は今な、このライスを1ミリグラムでも多くグリコーゲンに転化することに集中してんだから話しかけんな」なんて会話で小手調べをしてるうちに、ずらずらとサッカー部面々が席に着き始める。本日の学食集合者は6名。いつもならここで集団的行為としての実のない会話に力を注ぐところだが、この日この時は違った。ナナヤマが真剣だったのである。奴は昨日のオフに入念な現地視察を行った結果、マルイチ最大の難所である復路の上り坂を回避する道を発見していたのだ。
ナナヤマの正式な誘いに対し、私が称賛と恭順のチキン南蛮一切れを差し出したのはもちろんである。他の連中したって常日頃から、日本の坂を全て無くす公共事業で衆院当選を狙うつもりだ、諸君は我が被選挙権を得る日を待たれよ。それって高校卒業後じゃないの? うひゃー! みたいなのばかりなので、即賛成である。そもそも本当に近道なのかとか、コーチに見つかったらどれほど恐ろしいことになるのか見当も付かないとか、お前マルイチ得意だからわざわざ近道すること無いんじゃないとかそういう冷静な疑問は、冒険への誘いが既に我々の頬を赤く染めてしまった以上、お門違いのこんこんちきなのであった。このくそったれな日常に、ちょっとだけ穴を開けたっていいじゃないか。テーブルを囲む176名。もはや胆汁に苦しむ中年高校生はいない。俺達は今日、あの空の下でハックルベリーになる。鼻の下を人差し指の腹でしゅしゅっとこすった後は、グランドでの再会を誓い合い、午後の授業へと散った。

私は過去最高のペースでマルイチを走っていた。何しろ脇道にそれるところを見られてはいけない。前半は死ぬほど飛ばす、結果的に普通に走るより疲れても本望、というのがハックルベリー達の約束だったのである。私にとっては興奮に加え、他5人の方が走るの速いから置いてかれないようにしなきゃとか、それにしても俺って気持ちさえ入ってれば本当はけっこう走れるんだなとか、いっそこのまま最後までいった方がコーチの覚えが目出度いんじゃないかとか、いろいろ考えることの多い往路であった。
折り返し地点を過ぎてしばらく、先頭を走るナナヤマに続きささっと全員右折。もしも俺がネズミだったらこの道に逃げ込むだろうなという感じの、細く、汚らしい道。皆の口元がそれぞれ緩んで、冒険の始まり。
果たして正式ルートから外れてなお、我々のペースは落ちなかった。学食での作戦会議では、右折さえうまくできちゃえばこっちのもんだから、後はゆっくりグリコでもしながら行こうぜということだったが、しゃかりき高校サッカー部員・裏道にてますます血気盛んの巻とご理解いただきたい。誰かが、これじゃあ近道の意味無いじゃん俺達、てなことを早い息づかいでボソリ。残りの5人はニヤリ。全体ペースは更にアップ。その俺達ってのに俺も入っているんだよなという喜びが、普段ならそろそろ挫折形態の検討を始める頃の私に力を与えた。
さらにそのまま12km。先頭ナナヤマが一瞬振り返って、ここだここだという顔で左を指した。クライマックス。説明によれば正式ルートでは坂になっている辺りに実はトンネルがあり、これを使えば復路の上り坂なしでゴールまで行けるらしい。坂なしで! 思えばこれまで何度あそこに墓標を刻んできたか。あの坂が回避できるならマルイチの心理的負担は1/3ぐらいになり、運勢は開け、光明は差し、俺のこのしみったれた高校生活を一転させてくれるに違いない。そしてその約束の地が、いよいよそこに。
左折。その刹那、私の中に近道とかトンネルとかそんなものはどうでもいいという気持ちが芽生えた。動機とルートに少々難はあれど、はじめてペースを落とさずにマルイチを完走できるかもしれない。いや、これはもうマルイチの問題ではない。もっともっと大きくて恐ろしいもののために俺は走っているんだ。ついてこい、フィラストラトス! メロスだ! メロスの心境じゃないのこれ!

道の先には、トンネルというよりガード下と呼ぶべき狭い通路が続いていた。入口に看板一つ。17才の秋、その内容を理解した際の心境を、私は未だうまく表す事ができない。
「けた下1.9m
身長1.7mちょぼちょぼの17歳達は、冒険の終わりに向かって跳ぶように駆けていく。出口から差し込む光に浮かんだ後ろ姿は、まるっきり青春の一こま。躍動する背中には羽が生えているに違いない。何しろ20cmまでなら浮いたってぶつからないんだから。その後ろを、首をこごめてよたよた走る1.94m。追いつこうにも体勢もが許さない。みるみる遠くなる集団に、「ちょ、ちょっ、待てよ、待ってよ、道、わかんねーよ」などと我ながら情けない台詞を吐き、よだれを垂らして食らい付く。お前が必死になると醜さも194cmなんだよねー、とは以前友人から言われた台詞であった。おまけにこの通路、かなり太い道を横切ってるだけあって、絶望的に長い。ついに前方から「ひゃっほう」なる反響を利用した奇声が聞こえてくるに及び、私は「だめだ」と呟いていつもの敗残兵と化した。

その後、住所表示と勘を頼りにゴールにたどり着くと、結局後ろから数番目。いつもそのくらいなのでコーチにも特段疑われることはなかった。膝に手を付き一切は空。向こうでは、今や無関係な世界の5人が俺達成し遂げちゃったぜ的に談笑している。「君は194cmであることがどういうことか知っているのか」。私の問いかけが言葉になることはなかった。

社会からの拒絶(本文とは別の箇所)

ここでお別れ(本文とは別の箇所)



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